火曜会と私

第5章柏木火曜会時代(その2)(2003年9月〜2004年2月)

火曜会の開催場所が秋葉原から柏木に移転したことによる欠点を挙げるとすれば、それは、代表職にある者の責任の増大でした。と言うのも、代表者が参加費を徴収して一括支払いをする、というシステムを採用していたため、秋葉原時代の様に自然発生的に会が成立するという気楽さがなくなり(ただの参加者としてならば気楽なのですが)、代表者には早めに会場に来るなどのある種の義務や責任、積極性がより求められることとなったからでした。初代某の辞任は、火曜会の、というより社会人を主体とするのサークル活動の難しさを参加者各人に改めて認識させる結果となったのでした。
 このことを踏まえて、9月9日の例会後の会食(於:サイゼリア)で話し合いが持たれました。記録によるとこの時の参加者は初代某、いしい某、副代表、本社勤務、CV某、惨敗師匠某、紳士服某、古都某、そして私の9名でした。意見の大半は現状維持を望むものであり、前述のように代表職の負担を軽くすることを考慮して、最終的にCV某といしい某の2名が現場責任者として火曜会を維持することとなりました。加えて12月2日に万が一の事態に対応すべきでは、との意見から参加者の中から上がり、新たにツクモザキ某を現場責任者に選出しました。これにより火曜会はいしい幹部*1、CV幹部、ツクモザキ幹部による三頭体制が確立したのでした。
 このように集団指導体制でスタートした新生柏木火曜会でしたが、2004年2月頃よりCV幹部が仕事のローテーションの都合で休会状態となり、ツクモザキ幹部も夏季・冬季に長期離脱をすることが多く、必然的にその運営がいしい幹部の双肩にかかってくることになってきました。そしてこの時期を境に火曜会において秋葉原時代と柏木時代との差が見られるようになってきていました。
 そもそも火曜会の発足事情からし秋葉原時代は埼玉の某ボードゲームサークルと玉屋派の出店的(+自然発生的)存在であった感が強かったのですが、2003年9月の初代某の単独運営体制から3幹部の集団運営体制を経て、いしい幹部の実質的単独運営体制が確立した2004年2月頃までの過程で、火曜会に火曜会としてのアイデンティティが確立していったといえるでしょう。つまり火曜会の求心力が火曜会生え抜きであるいしい幹部に収斂されていくことによって、火曜会はその独自性*2を獲得していったのです。
ある調査*3によると、いしい幹部の単独運営体制が確立した時期から火曜会の主要参加メンバーの構成要素にも顕著な変化がみられます。一言で言えば創作ゲーマー系列の人脈の流入でした。前述の通り、火曜会ではこれまで創作ゲームのテストプレイの場所としての機能を果たしてきましたが、いしい幹部はその方針をより促進し、かつ自ら創作ゲーマーへの積極的投資に乗り出した結果、昨今の本社勤務某が主導する某ブランドの発展を導き、その名声は火曜会に開催者某、JA3某、義弟某、900弱や金槌某などの創作系ゲーマーを引き寄せることとなりました。
 私自身はゲームは専らプレイするだけで、やってもせいぜいAH「マキャベリ」のヒストリカルシナリオを趣味で作成するのがせいぜいなので、システムの考案からコンポーネントの作成まで手がけようとするこれらの方々の、正に手の内を垣間見る機会に恵まれる、というのはある意味において幸せであったと思っています。

*1:火曜会の現場責任者の労苦を偲ぶために火曜会参加者有志により命名された尊称(笑)

*2:一言で言えば、「確信犯的にうっかりする」「正気の酔狂」というのが私の実感です。(偏見アリ)

*3:火曜会ノート及び火曜会夕食会出席者リスト